欅風-江戸詰侍青物栽培帖
第71話 天岡の村請制と助郷制度改革
天岡は氏安から指示を受け、桑名44村の村請制と助郷制度についての改革案をまとめていた。割当てられた石高は検地で決まっている。石高の引き下げは認められる筋合いのものではなかった。石高は常に実際より高めに決められていた。以前九州の天領の一つ、天草で現実を考慮しない余りに高い石高に耐えかねて農民が逃散する、という事件が起きた。解決策は実質的な増産しかない。そのためには稲の品種改良を続け、病虫害、冷害に強い品種を作りだすことだ。米つくり名人の経験と知恵を集めて、少しでも早く新しい改良品種で実績を上げなければならない。天岡は米つくり名人の大会の後、名人達に定期的に集まってもらい、米作りについてそれぞれの地区での取り組みを聞き、どのようにしたら増産できるか、一緒に検討を続けた。その結果を踏まえて、名人の中から5名の者を選び、翌年の種籾の選抜を行なわせた。次に重要な課題が除草であった。除草は特に初期が大事だ。俗に雑草が生えてしまってから除草するのは下農、生え始めに除草するのが中農、生える前に除草するのが上農、と言われている。生える雑草を取り除くために桑名では農家がそれぞれ工夫して「田ころがし」という道具をつくり、使っていた。これは広い面積の除草が出来るので、便利な道具だ。この初期除草を行なうためには、稲の植え付け後、3~4日後に田ころがしを使うのは望ましいのだが、そのためには稲の苗がしっかり活着していることが前提になる。そのような活着の早い苗を作ることが課題となった。また苗を植えた後の水の深さも研究課題だ。ある田圃で通常よりも水を深くしたところ、一番厄介な雑草のヒエが殆ど出なかったと、その田圃の農民から報告があった。ヒエは稲との区別が難しい。深水というやり方でヒエを防ぐことができれば、ねがったりかなったりだ。種籾の選抜と2~3日で活着する育苗のやり方が課題となった。そして毎年被害が出ているイノシシ対策。山に近い田圃は毎年イノシシの被害を受ける。
助郷制度は宿場を抱える村にとって大きな負担となっていた。人馬を抱えて、世話をし、荷物の運搬に支障が出ないようにしなければならないが、その負担は全て近在の村にかかってきた。年貢を納めた上に、宿場を維持するための負担もかかってくる。近在の村の負担を軽くするために、負担義務を持つ村の範囲を拡げることも考えられたが、他領の村まで侵すことはできない。
桑名は大きな宿場町だ。助郷制度は今後ともしっかり維持していかなければならない。天岡は藩校の護民塾での検討内容も踏まえながら、助郷制度を支える新しい仕組みづくりに日夜没頭していた。その結果考え出した案は破天荒なものだった。以下がその概要だ。
1.桑名の宿場で商いをしている宿屋、飯屋、物売りは御料地の代官が発酵する切手を
現金で購入する。
2.必要な金額は全部で500両。これは差上げ金ではなく、預け金で、満期になった
ら返還される。期間は5年間。利足金は1割で毎年50両が宿場に配られる。宿場の責任者は宿場の機能が十分維持できるように適切な配分する。
3.5年後には500両が、それぞれの切手の金額に合わせて返還される。500両の運用は御料地の札差が責任を持っておこなう。
4.6年後にはまた5年間の期間で同じやり方で500両を預け金で代官に預ける。
桑名の宿場で商いをしている者達は、言うまでもなく宿場が栄えることを望んでいる。預け金であれば説得できるはずだが、問題は代官の発行した切手の安全性だ。天領の代官とは別に実質的な担保能力があるところが保証に入らなければならないだろう。
宿場を利用する者達にとって、宿場の機能が充実していることがありがたいことだ。天岡はこれを機会に、宿場の運営体制を見直すことを考えていた。元気な人馬がいつも用意されていて、しかも安全な宿場なら利用者も増えることだろう。その結果桑名の宿場で商いをしている者達の実入りも増えていくことが十分見込まれる。
札差は毎年利足金一割、50両を桑名の宿場に配らなければならない。この利回りを確保し、実現するためには、安全かつ一割以上の収益の上がる形で地場産業に投資する必要がある。この運用の仕組みを考えるのが最大の要だ。近頃世の中が安定してきたこともあり、景気が良くなってきた。貨幣の流通も多くなってきている。
天岡はさらに検討を重ねて、護民塾の皆とも相談してから、藩主に上げることとした。
第70話 才蔵の生き甲斐
1年が経った。
才蔵は郷助の畑で次郎太、孝吉と一緒に農作業に汗を流し、郷助の作業場で郷助を助け、最初は月1回だったが、最近では月2回、波江の寺子屋で和算を教えている。
寺子屋への行き帰り、才蔵は「我ながらこのような日がくるとは 思っていなかった」。労働に励み、人々の笑顔に接するうちに、自分を死に駆り立て、自己憐憫的思いに沈もうとするもう一人の才蔵が随分と穏やかになった。才蔵はもう自分の中のもう一人と戦わなくて良いのだと思えるようになった。他の人には自分の心中は分からないかもしれないが、自分の人生、この問題が解決しただけで十分とさえ思えた。
ところが次郎太がこんなことを言った。
「才吉さん、最近才吉さんがやっと一人に見えるようになってきた。以前は何かボーッと二人に見えたもんだが。そしていつも疲れているようだった。だけど今は違うだよ」
才蔵は図星を衝かれた心の動揺を抑えながら、
「次郎太さん、まだまだです。いつぶり返すかもしれません」
才蔵の言葉に被せるように次郎太は言う。
「才蔵さん、もう大丈夫。大丈夫ですだ。そう信じて前に向って進んで行ってください。才蔵さんの上には青空が広がってきただよ。才蔵さんのための青空が。だけど人の心の深いところは薄暗がりがある。青空と薄暗がりの中を生きるのが人生と思うだよ。辛くなった時は、一人で問題を抱え込まずに声をかけてください。俺も辛くなった時には才吉さんに声を掛けますだ」
朝焼けを見ながら、次郎太の車椅子を、孝吉と才蔵が押しながら、田畑に向う。車椅子の中の次郎太が言う。
「毎日、こんなふうにして3人で畑に行き、働く。毎日同じことを繰り返しているようだが、俺は本当に幸せだ。こんな日々がずっと続いてほしいものだ」
田畑への行き帰り、三人でいつも話し合う話題といえば、どうしたら品質の良い農産物が多くとれるようになるか、そして、手間を省き、生産性を上げるための農機具の開発についての話であった。
野良仕事が終る夕方、休む間もなく、才蔵は郷助の作業場に入る。主な仕事は帳簿付けと助手一人一人の今日一日の出来高の確認だった。夕食後、作業場に戻り才蔵は郷助と打ち合わせる。そして一日が終る。
月2回の寺子屋の講義を才蔵は楽しみにもしていたし、その準備にも時間を掛けていた。郷助、次郎太の許可を取り、月2回午後は休みをもらい、才蔵は寺子屋に向った。懐いてきた子どもたちに会えるのが嬉しかった。そして波江にも、慈光和尚にも会える。
「このような人達に囲まれて、一日一日を過ごすことが今の私の幸せなのだ。先のことは考えないようにしよう。今日一日を生きることができればそれでいい」
才蔵は寺子屋で教えた後、慈光和尚と茶を飲みながら、話をする。和尚が誘ってくれるのだ。和尚は頭を下げた後、言う。
「子供たちが才蔵さんが来るのを楽しみにしておりましな。本当に分かり易い講義です。子供たちのために工夫してくださっていることが良く分かります」
「恐縮です」
才蔵は和尚の顔を見ながら、自分の今迄の人生を語る。
「私は死にぞこないなんです」
「それは、それは。どんなことがあったのですかな」
和尚は才蔵の話を時には相槌を打ちながら聞き続けていた。
才蔵は和尚なら自分の人生を分ってくれる、なぜかそのように思った。半刻ほど話した後、和尚は言った。
「拙僧も死にたいと思ったことがありました。そしてそこから新しい人生が始まりました。最近思うのですが、人生の問題はなかなか解決できるというものではないようですな。解決できればそれはそれで良いのですが、私達にできることは乗り越えていく、ことではないか。どうやって乗り越えていくか、拙僧は最近、仏の教えとは、乗り越えていくための知恵ではないかと思っていますのじゃ。いやいや、余計なお話をしました」
才蔵にとって子供の頃の体験が大きな心に傷になっていた。それは母との関係だったが、その話もおいおい慈光和尚に聞いてもらおう、和尚ならきっと受けとめてくれるはずだ。
この問題の解決がこれからの人生を本当の意味で開いてくれるのではないか、才蔵はそう思った。
第69話 藩の祭・様子
狭野藩は一万石のまことに小さな藩だ。そのような藩を豊かにするためには、物産の輸出だけではなく、大阪、京都など近在の町から、また村から来てもらい、お金を落としてもらえるような仕組み、施設をつくらなければならない。
そのため年2回、狭山池での祭りを開催している。春、桜が満開の頃は狭山池に屋形舟を浮かべて、舟の中から、浮き舞台の上で演じられる芝居を楽しんでもらう。評判が良く、始まって以来毎年開催されている。今では狭山の浮き舞台ということで大阪、京都からそれを目当てに来る客も増えてきている。
秋には盛大に狭山池で「月取り」という催しも行なっている。狭山池に映った月を衣で掬い取る縁起をかついだ遊びだ。たまたま大阪の商人が以前狭山池に来た時、戯れに上着を脱いで、舟の上から水に映った月を掬いとったところ、商売が急に繁盛し、大店を構えたという噂がキッカケになり、年中行事となった。
狭山池に遊びにくる大阪、京都、近在の町人は懐具合が良いせいか、惜しみなくお金を落としてくれる。
それはそれで良いのだが、旅先の開放感のためだろう、売春を求める客が跡を絶たない。狭野藩では売春を禁じている。売春のあるところ、博徒などが入り込み、治安が乱れることを藩は警戒している。また売春が横行すれば狭野藩の領内に住む子女に害が及ばないとも限らない。そのため見回り役が平服に着替えて領内巡回をしている。そしてそれらしき行為に及ぼうしている者を見つけた時には、直ちに拘束している。
拘束された者達は嫌がらせに声高に騒ぎ立てる。
「狭野の地は女ッ気のないなんとも面白くないところだ」と。
狭山池に遊びに来る客の大半は老人だった。大阪、京都からであれば、一日もかけないでここ狭山池に来ることができる。小高い山々に囲まれた盆地にいると町の喧騒を忘れることができる。食べ物は美味しいし、そして毎日薬草がたっぷり入った薬湯に入ることができる。また薬湯では地元の人々と一緒に入って四方山話しができる。領内は狭く、治安が行き届き、泥棒の被害もめったにない。安心して、ぐっすり眠ることができる。領内を歩くと、ところの人達が気軽に声をかけてくれる。
「ゆっくりしていってください」
まるでわが家に帰ってきたようだ。
家を空ける訳にはいかない、ということで夫だけを狭山池に送り出す老妻もいる。遊女、遊女を囲う旅籠がないというのは、安心だ。ということで気持良く送り出すことができる。
人ツテに狭山池の評判が大阪、京都に広がっている。観光が大きな収入源になってきている。ある時氏安はこう言ったことがある。
「なんでもかんでも賑わえばいい、お金が落ちればいい、ということではない。そんな考えになってしまったら、人々の心も汚れ、狭野の地も汚れていく。今この狭山池、狭野の地を楽しんでくださっているお客様を大事にすることだ。そうではないかな、天岡」
「仰せの通りでございます。そのためにも今狭山池と狭野の地に足しげく来てくださるお客様にもっと喜んで頂けるように磨きをかけ、魅力を高めることが大事かと存じます」
氏安はこの度の藩校開設に伴い、考えていることがある、と言って、次のような話を天岡にした。
1.農民の「国柱塾」工人の「国富塾」商人の「流通塾」の塾長、師範のそれぞれの者がそれぞれの勉強の成果を広く発表する機会をつくる。この発表は大阪、京都、堺から来てくださるお客様に見て頂く。発表の場所は肩の凝らない温浴施設の食堂などを広い場所を使えば良いだろう。
2.世間は広い。お客様の中には農民、工人、商人とそれぞれいることだろう。われわれよりも高い知見を持っている人も中にはいるはずだ。発表することによって、気付かされることも多いのではないか。
3.そのような人達と良いつながりを持つことができれば、いつなんどき新しい道が開けるとも限らない。世間の人々はお客様であると同時に、われわれの教師でもあるのだ。
藩校開設の式典の後、発表会が開かれた。塾長、師範、講師の並ぶ中、発表者が自分達の学びの様子をそれぞれ報告した。会場には湯治で来ているお客様も大勢来てくださった。
発表の後、座卓に並べられた食べ物をつまみながら、懇談の時が続いた。
あるお客が言う。
「狭野藩はちいさな藩だが、取り組んでいることは大きなことですな。人を育てる、これ以上大きな仕事はおまへん」
氏安は頭を手ぬぐいで被い、会場の中にいた。発表者の話を聞きながら、「随分練習もしただろうが、ここまで立派な発表ができるとは・・・」後は言葉にならなかった。
発表会の後、一週間後藩校に数通の手紙が届いた。
その中の一通。
「今迄藩校と言えば侍の子弟のものでした。このような四民が一緒に学ぶことのできる藩校は他にないのではないでしょうか。できることなら私の息子を貴藩の藩校に入れたいものだと思っております。大阪の一工人」
もう一通は和算に触れている。
「貴藩校では四民が和算の学習をしているのに正直驚きました。子どもたちの間でも和算の計算をまるで遊びのようにやっているのを見て、これだと思いました。京都の一商人」
藩校開設、発表会の後、暫くはこんなやりとりが続いた。
氏安は考えていた。これからの時代、人々の心をつかむ商品をあたらしく創り出すためにはわが藩だけで小さく固まっていてはならないのではないか。しかし「他領勝手」はなかなかできるものではない。そのためにもまずは波風の立たないところで、人々とのしっかりしたつながりをつくるにしくはない。わが藩は小さな、力のない藩なのだ。じわじわと行くのだ。
第68話 狭野藩 藩校開設
狭野藩で始まった塾は今年で3年目になる。毎年それぞれの塾は受講生で定員一杯になった。武士のための護民塾では大阪、京都、堺から高名な先生を招いて、講話を聞いた。題は、国を治めるということはどういうことか、物価はどのようにして決まるか、これからの社会はどのようになっていくか、などだった。一方、藩の財政状態の説明と改善策、助郷制度の問題点、税率の決め方など実際的な事柄になどについても、ある時は専門家を呼んで、研究を重ねた。そして3ヶ月毎にどのようなことを学んだか、藩主の氏安に塾長が報告した。
氏安は報告を聞いた後、いつも口癖のように言う。
「引き続き励んでほしい。武士が狭野藩を護るための学びに打ち込んでいけば、民、百姓もかならずついてきてくれるはずだ。誰のための学んでいるのか、絶えずそこに立ち返るのだ。」
農民の塾、「国柱塾」の塾長は初夏の田植え前、秋の刈取りの後、年2回、氏安のところに報告に来る。秋に氏安の前に出た時、塾長は今年の前半の学びについて詳しく報告した。
1.稲の病害虫対策について
2.田植えから秋の収穫迄の気象の変化について
3.青物につく病虫害対策について
4.山の方で栽培している薬草について
5.農機具の改良について
報告を聞いた後、氏安は塾長に労いの言葉をかける。
「何分お天道様が相手故、苦労が多いことと思う。天は恵みも与えてくださるが、試練も与えられる。農は天地の中で、食べ物を生産するという人の努力と知恵が最も求めらる仕事だと私は思っている。皆のものが日々自然と向き合いながら、その摂理を学び、精進するように願っている」
工人の塾長も年2回、氏安の前に出る。工人のための塾である国富塾に受講に来るものは村の鍛冶屋、大工、木工屋、左官屋、井戸掘り屋、漬物屋、傘屋、履物屋などの子弟だ。親から塾に行って勉強して来いと言われて受講しているものが多いが、今では塾に来るのが楽しみになっている。それぞれの分野の村で名人と言われるような年季の入った職人が講師になって教える。面白くないはずがない。
氏安は工人の塾長の報告を聞いた後、言う。
「私も一度名人の話を聞いてみたいものだ。ものづくりは藩の民の生活を便利にし、農業を発展させる大きな力だ。良い道具があれば、少ない人数で多くの仕事が、それも早くできるようになる。使う者の立場に立って良い道具づくりを、新しいやり方を考えることのできる若者を育てていってほしい」
商人の塾「流通塾」の塾長が報告に来た時には、天岡が氏安の傍らに居た。塾長は3つのことを報告した。
1.商人のあるべき姿、商人道について学んでいる。教本は大阪の懐仁堂の屯倉徳庵から譲り受けたものだ。
2.物の流れ、特に舟運について。誉田利明の「舟運秘策」を学んでいる。船であれば大量に安価に運ぶことができる。
3.大福帖の書き方、つけ方について学んでいる。
農民、工人、商人の塾長から、同じ要望が2つ出た。
1.読み書きの時間をもう少し多く取りたい。狭野藩では領民全てが読み書きできるようにしたい。
2.これからは経済の時代。数字で物事を判断することが多くなる。それは農民、工人、商人を問わない。和算の時間をもう少し多く取りたい。また和算の専門家を招聘して頂きたい。
三ヵ月後、氏安から狭野藩の領民に以下のような知らせが伝えられた。
1.塾を藩校に格上げする
2.領民は今迄と同じように受講して良い
3.一年に一度、試験を行なう。合格したものには賞状を与える
4.試験には何度でも挑戦できる
5.新たに文化、芸能についても講座を設ける。
藩校への格上げに伴い、講師陣に大阪、京都、堺から専門家が招聘された。読み書きの専門家、和算の専門家が特別講師という立場で、師範、また受講生の指導にあたる。懐仁堂の屯倉徳庵も特別講師として迎えられた。
そしてこの藩校の校長は藩主、氏安。副校長は天岡文七郎となった。
その日天岡は帰宅してから、妻の妙に声をかけた。しかし、妙は居なかった。ちゃぶ台の上に手紙が置いてある。拡げてみると
「私は実家に暫く帰ることにします。このような気の病を患い、あなたの足でまといになていることを本当の申し訳なく思っております。暫くはそっとしておいてくださいな」
天岡は妙と夫婦になった頃、藩庁から帰ってきてそそくさと夕食を取った後、すぐに自分の居室にこもり、読書に没頭した。本の購入費には糸目をつけなかった。家計は決して楽でないのに、天岡は頓着することなく、本を買った。家計の不足を補うため、妙は度々実家に無心をしていた。居室で読書をしていると戸の向こう側で妙が泣いている声が聞こえた。しかし天岡は読書を止めなかった。「俺は家族の温かさ、と言う大切なものをつくれない、冷たい男なのだ。」妙は二度流産した後、身ごもることは無かった。「俺は自分のことで精一杯、そしていつの間にか多くの人々を傷つけている。」
藩庁では部下の家臣から反発を受け、浮き上がったことがある。
「あなた様の下では役に立つ働きができかねます」
その時の上司の計らいで、天岡は大阪の久宝町の藩庁の出先に出向を命じられた。仕事と言えば、書類を整理し、綴じるようなことばかりだった。宿舎は久宝町の藩庁のすぐそばの小さな宿舎の1室をあてがわれた。
天岡は一時は木賀才蔵と比べられ、将来を期待されていた。しかし、人の心が分からない人間だった。そんな時、その時の藩庁の出先の長、平井俊之助に紹介されて、懐仁堂の屯倉徳庵と知り合った。徳庵はそんな天岡をゆったりと受け入れてくれた。ただただ話を聞いてくれた。そして大阪の町を歩きながら、人々の日々の生業について話してくれた。
「職業に貴賎はない、と私は思っていますよ」
「どんな仕事にも、これは宝だ、と思えることがあります」
「仕事をしていて嬉しいことは他の人と気持が通じ合った時です」
「私だからこそできることを持って他の人の役に立つ。それが生きている、生かされてる、っていうことではないでしょうか。私はそう思います」
天岡は徳庵の話を聞きながら、生まれ変りたい、と思った。10年以上も前のことだが、
昨日のように思い出される。あれから自分はどこまで変ることができたのだろう。本当のところは余り変っていないのかもしれない。
天岡は妙の実家に向った。妙をこのままにしておいてはいけない。
時代小説「欅風」について著者からのお願い
いつも欅風をお読みくださり、ありがとうございます。
最近迄70話で終える予定でしたが、あと10話書くことになりました。最終的には
80話となります。これで本当に終ります。最期の10話は登場人物一人一人に焦点を合わせ、現在とこれからの人生について書いていきます。既に75話まで書きました。
引き続きご愛読の程、お願い申し上げます。 阿部 義通
第67話 氏安 御料地担当の試みを受ける
氏安が黒書院で御料地担当の役目を仰せつかった日、利勝から次のような意外な言葉があった。
「暫く江戸城で御料地のための会合がある。藩には1ヶ月以上帰れぬやもしれぬ。あらかじめ書状を藩に送っておくように」
氏安は内心、それほどの打ち合わせが必要なのかと思ったが、顔には出さず、
「ははっ、確かに承りました。今日の夕刻迄に送ることと致します」
藩に書状を送った後、利勝より呼び出しがあった。江戸城の中、今迄足を踏み入れたことがない奥のところにこじんまりとした部屋があった。
部屋に入り、利勝と向き合うようにして着座すると、直ぐに酒と料理が運ばれてきた。
「今日は貴殿のために祝いたい。御料地のお役目、ご苦労だな」
若い女が数人入ってきて、氏安と利勝に酌をする。
氏安はまさか江戸城内でこのような饗応を受けるとは思ってもみなかった。
「今夜は思う存分飲んで良い。酔い潰れたら隣の部屋を用意してある。そこで眠ればよい」
酒を注がれるままに飲んでいるうちに、悪酔いし始めた。
気がつくと氏安は布団の上に寝かされていた。まるで眠り薬を飲んだかのように朦朧としている。そして驚いたことに下帯もはずされ、全くの裸になっていた。それどころか、3人の裸の女が氏安の身体の上を動いている。女の顔がボンヤリと見えた。
「一体これはどうしたことか」と思いながら、氏安の意識はまた闇に沈んでいった。
翌朝早朝、利勝のところに年配の女房がやってきて報告した。
「昨晩、うわごとのように氏安殿が言っていたのは、狭野藩のことでした。狭山池の水位はどうか、米の価格はどうか、江戸で絹織物を売るのだ・・・というようなところでございました。特に気になることはございません。」
「それで氏安は女に対してはどうであった」
「なすがままにされていました」
氏安は叡基から聞かされていたことがあった。
「大事なお役目を仰せつかった者に祝宴と称して大酒を飲ませ、前後不覚にして本性を出させる、とか聞いたことがあります。あくまで噂ですが、幕府であればやりかねません」
目が覚めた後、氏安はすぐに叡基の言葉を思い出した。
「ああ、そういうことであったか」
しかし、不安もあった。酒に酔った時、自分が何を言ったか分からないからだ。
昼食が運ばれてきた。部屋の中で女たちの世話を受けながら食べた。食事の後、風呂を使いましょうという女たちに連れられて湯殿に向った。女たちも着ている着物を脱いで一緒に湯殿に入り、氏安の身体を洗う。
これらは全て利勝の指示によるものだろう。利勝はどこかで自分の様子を見ている。氏安は覚悟を決めた。されるがままで行くしかない。
その晩は昨日に優る酒と料理が出た。女たちが数人やってきて酌をし、氏安にしなだれかってきた。酒を飲んでいる内に昨晩と同じように朦朧となってきた。
「布団に移しましょう」と女たちが言っているのがかすかに聞こえる。
布団の中に自分がいるのが分かるが、横に誰かが寝ていてしきりに話しかけている。
「二代将軍は血も涙もない酷い将軍と思われませんか」
「二代将軍は関が原の戦に遅参した戦下手な将軍でしたよね」
「二代将軍は親の七光り」
そう語り掛けて、「私もそう思う」というような言質を引き出そうとしているようだ。
氏安は朦朧とした意識の中で祈っていた。神仏の加護を求めた。
次の日も同じことが続いた。
3日3晩の饗応の後、4日目の朝、利勝が部屋にやってきた。
「堪能されたかな」
氏安は思わず、これは一体どうしたことでしょうか、と利勝に尋ねようと思ったが、寸前で飲み込み、答えた。
「堪能させていただきました。ありがとうございました」
それから1週間、氏安は部屋にいた。沙汰があるまで待機せよ、との指示を利勝から受けていた。部屋の中には誰もいない。氏安は瞑想の姿勢をとって考えることにした。考えることは山ほどある。
1週間後、利勝が部屋にやってきて、幕府の関西方面の御料地の書類を渡した。桑名44村以外の2箇所の過去10年間の様子を書き記したものだった。
「これからどのようにしたら良いか、思うところをまとめてみよ。2週間以内に、だ」
秀忠が利勝と話をしている。
「氏安は酒癖はどうだ」
「大酒のみではないようです。酒に酔って人間が変るとか、暴言を吐いたり、狼藉に及ぶということもありませんでした。」
「女癖はどうだ」
「女たちがいろいろと仕掛けましたが、自分から女を抱きにいくというようなことはなくされるがままにしていたとか。女の経験がないのではないかと存じます」
「面白みのない男だな」
「自分自身のことについてはあまり頓着しない、恬淡とした男のようです」
「御料地2箇所についてどのような改善策を出してくるか、楽しみにしよう」
秀忠は氏安のことを内心羨ましく思うことがある。小さな藩だが、家臣と力を合わせて藩を盛り立て、生き延びようとしている。人間にとって、特に、男には仕事のやりがい、充実感がなくてはならないものなのだ。仕事の大小ではない。そしてそれが男の器を大きくする。自分は義務感だけで日々の政事をしていないだろうか。心から楽しいという思いが自分には全くないのだ。そのような日々への報復のように、「ワシの心の中には人々への残酷な思いがいつも疼いている。」
利勝は自分の部屋で書き物をしながら、氏安が今回の試験を無事乗り越えたことを喜んでいた。
「氏安は大丈夫だろう。鍛えていけば、御料地経営にとって欠かすことのできない人材になっていくはずだ。またなってもらわねばならぬ」
波江の近くの村でキリシタンが見つかった。若い母親だった。見せしめということで処刑が行なわれることとなった。
波江と千恵は農作業の合い間に見に行った。
若い母親の膝の上に石が積まれている。そしてその傍に子どもが逆さづりにされていた。
激しい拷問が続いている。役人はこのキリシタンに仲間を白状させようとしている。
白状しないと見ると役人はさらに膝の上の石を積み上げ、子どもをあたりかまわず棍棒で殴りつける。母親の絶叫と子どもの激しい泣き声。
母親が激痛のため意識を失うと水を掛ける。身体中を殴られた子どもからはもう泣き声は聞こえない。それを知った母親は最後の力を振り絞って口の中の枷を食いちぎり、舌を咬んで死んでいった。最後迄子どもの名前を呼び続けていた。
その晩、波江と千恵は押し黙ったまま夕餉をとっていた。
波江が絞り出すように、小さな声で言った。
「ゼウス様はどんなお気持で見ておられるのでしょうか」
千恵は黙って波江の顔を見た。その目には涙が溢れていた。
第66話 狭野藩 江戸に物産店開設
狭野藩では江戸に藩としての店を出すことにした。店を出すための準備は戸部新之助と天岡文七郎が担当した。藩主氏安の承認の元、戸部が直営店の最初の責任者となった。
新之助は三枝の手紙を送った。
「1年の予定だったが、あと1年江戸に留まり、狭野藩の店の立ち上げをすることになった。ただし、これからの1年間は、時々は家に帰ることができる」
江戸では柄を入れた絹布を主力商品とし、狭野藩の物産を併せて販売する。一方狭野藩の薬草は江戸の薬種問屋向けに販売することとし、本人の申し出もあり、責任者は天岡となった。新之助は荻屋に住み込んで呉服商の商売の仕方を覚えた。
1年経ったある日、新之助は萩屋の主、徳兵衛の部屋に呼ばれた。
「戸部様、お約束の1年が経ちました。戸部様には1年と言わず、2年も3年も居て欲しかったのですが、藩とのお約束、お別れの時が来ました」
「旦那様、この1年間大層お世話になりました。呉服の商売がどんなものか、全く商売をやったことのない素人の私を仕込んでくださり、本当にありがとうございました。お礼の言葉もございません。侍の私は気がきかなくてさぞ使いにくかったかと思います。旦那様、番頭さん、お店の皆様のお陰で何とか1年間遣り通せました。楽しい日々でした」
「そうですか、そう言って頂ければ私も嬉しい。さてこれからのことですが、狭野藩として新しく呉服の店を四谷の荒木町に出すとご家老から伺いました。また引き続き手伝ってほしいとも」
新之助は荻屋の2階の自分の部屋を片付け、皆に礼を言って店を出た。道から店を見上げ、ふかぶかと頭を下げた。店の前では何人かのものが見送ってくれた。
四谷荒木町の店は既に狭野藩の江戸詰めの者達が開店準備に入っている。
さてこの荒木町の店は狭野藩にとって大きな役割を持つ店だ。ぜひとも繁盛させなくてはならない。天岡との打ち合わせで店の運営方針は以下のように決まった。
1.店の屋号は「大和屋」 狭山池のある土地の古名から取った。
2.番頭は荻屋の番頭繁蔵の下で働いていた順吉。新之助は徳兵衛と相談しながら人選を 行なった。徳兵衛は順吉の下に店の者4名をつけてくれた。
3.最初の1年間は店の名を知ってもらうことに力を入れる。そのためには接客は丁寧にする。時間がかかってもよい。お客様の要望をきめ細かく掴む。
4.主力商品は柄ものの絹織物。木綿の織物と違って絹織物はお金のある町人の妻女がお客様だ。既に有名な絹織物の店は数多くある。同じことをしていては売れない。
狭野藩では外出着ではなく、家の中で着たり、使ったりする絹織物の開発を進めてきた。下着として着る肌襦袢、部屋着して着る長襦袢。以前は遊郭で遊女が部屋着として愛用していたが、最近は町人の妻女の間で着るものが増えてきている。今迄は色の赤い緋襦袢が主流だったが、最近は色の好みが若緑、かば茶、小紫と増えてきている。薄くて軽く、夏も涼しげな襦袢、そして敷布団の上に敷く敷物。絹でつくった小物。
襦袢となるとやはり縮緬だ。京都丹後の宮津から縮緬職人に来て貰い、縮緬づくりの
指導を受けた。
5.店の一部で美容に良い商品を販売する。狭野藩で採掘している泥炭は泥んこにして顔に塗ると美肌にとても良いとのことで堺、大阪で売れ始めている。もう一つはお通じを良くするヤーコンの粉末、そして3番目は疲れを取るウコンをすりおろした甘酒。
荒木町の新店「大和屋」開店の日。朝から晴天だった。店の前にのぼり旗を8本立てた。
そして新之助以下、順吉、店の者が全員並んで道行く人達に声をかけた。
「縮緬の襦袢を揃えております。白襦袢、緋襦袢の他に若緑、かば茶、小紫の襦袢もございます。部屋着としてお使い頂けます」
「縮緬の風呂敷、小物入れもございます」
「美容のための商品も3種類、用意しております」
通り過ぎる客が殆どだ。なかなか店の中に入ってくれない。そうこうするうちに両脇と露地を隔てた正面の店から苦情があった。
「少し静かにしていただけませんか。私どものお客様がうるさい、と言っておられますので」
そうこうするうちに店に客が入り始めた。一つ一つ商品を品定めしている。お客様の様子を見て、順吉が寄っていく。町人の女房風だ。
「この小紫の襦袢、粋ね」
「ありがとうございます。どんな色がお好みなんでしょうか」と順吉。
「私はやっぱり緋襦袢だわ。母にはかば茶の襦袢がいいかもしれない」
お客は店の中のものを一通り見た後、
「また」と言って出ていった。
若い女の客も入ってくる。
縮緬で作った髪結びを手に取って見ている。店の若い者が、
「こちらに鏡があります。髪に結んで、ご覧ください」
気にいったのか、若い女は髪結びを買うことを決めた。
「前からこういう柄のを探していたんです」
町人風の老人が店に入ってきた。
「こちらでは絹の敷布を扱っているとか。ちょっと見せていただけますか。なに、私ではなくて、婆さんのために肌あたりが良くて、汗を吸い取ってくれる敷布がほしいと思っていましてね」
順吉が応対している。店の者に指示している。
「敷布を全部の種類持ってきておくれ」
店の者が店裏に走り、全種類の敷布を持ってくる。
老人は敷布にそっと手を当てて、
「何んとも言えない肌さわりですな。木綿ではこうはいかない」
順吉は言う。
「もしよろしかったら奥様と一緒にご覧になったらいかがでしょうか」
老人はちょっと顔を曇らせ、言った。
「家内は身体を悪くして、寝たり起きたりの生活なんです。買物のための外出もできないと愚痴を言っております」
「そうですか、それはお気の毒なことです」
老人はその場を離れず、敷布に触わりながら何か考えているようだ。そしておもむろに言った。
「お店の品物をみつくろって、私の家内のところに持ってきてもらえないだろうか。私はこの荒木町の先に住んでいる薬種問屋の主です」
順吉は即座に言ったものだ。
「ありがとうございます。奥様に見て頂くための品物を取り揃えて直ぐにでも伺わせて頂きます」
「それでは私はこのあたりをぶらっとしてからまた戻ってきますので、その時ご一緒に私の家に参りましょう」
順吉は荷車に品物を乗せて、店の者を一人連れて薬種問屋に主と一緒に向った。
二刻後、順吉が戻ってきた。
「沢山、お買い上げいただきました」
その声が弾んでいる。
開店初日、店を閉じた後、荻屋十訓を大和屋十訓に変えたものを皆で唱えた。
帳簿をつけながら順吉が言う。
「毎月買ってくださる得意先を増やすことがやはり大事ですね」
第65話 郷助の作業場 将軍訪問
郷助の作業場には毎日のように客がやってきた。両足の無いものは家族に背負われながら、両腕を失った者は家族に付き添われながらやってくる。片足の者は松葉杖を突きながら、片腕の者は一人でやってくることもあり、家族と一緒に来ることもある。
今日やってきたのは、両腕を潰した若者だった。妻なのだろう、若い女が付き添っている。
郷助の作業場に着くと若い女が走るようにして、作業場の受付のところにやってきた。
「こちらが郷助さんの作業場でしょうか」
作業をしている助手の一人が受付台に行き答える。
「そうです。どうぞ中にお入りください」
そう言って助手は外で立っている両腕の無い若者を迎えにいく。
二人が作業場の接客場所の椅子に座ったところで郷助が二人に挨拶をする。
「今日はこんなところまでわざわざお越しくださり、ありがとうございます」
助手が二人に茶を出す。
「郷助さん、こちらは私の夫です。棚田の石積みの際に、石が両腕の上に落ちてきて、両腕を潰してしまいました。幸い命は助かったのですが、事故の日からずっと「俺みたいな者はもう生きていても何の役にも立たねえ。死にてえ、死なせてくれ」と言い続けているのでございます」若い妻は涙ながらに話す。
「ご主人も確かにお辛いでしょう。それでも生きて働くことはできますだ。私の弟は戦さで両足を失いましたが、毎日元気に畑で仕事をしていますだ。」
そういいながら郷助は若い夫に言う。
「腕の傷口を見せて頂いてもよろしいですか」
若い夫は黙って頷く。
郷助は傷口を覆っている布切れを外していくと傷口が現れた。余程腕のいい村医者なのだろう、傷口が皮膚で覆われ、塞がっている。
「傷口はきれいに縫い合わされていますだ。村には立派なお医者様がいらっしゃるようですな。これなら直ぐに義手の準備ができますだ」
郷助はそう言って若い夫にやさしく微笑みかける。
若い夫はそう言ってもらって少しホッとしたようだった。
「俺が腕を無くしてからというもの、俺の仕事の分まで女房がやっている。俺には何もできない。それで自分が情けなくて情けなくて、どうしようもないですだ」
郷助は言った。
「そうでしょうな。今迄あったものが突然無くなり、今迄普通に出来ていたことができなくなる。人であれば誰でもそんな気持になるのは当然ですだ。ウチの作業場では皆さん一人一人の身体の具合、求めに応じて義手、義足、車椅子を作っていますだ。ご主人の場合、両肩から下げるようにして、義手を作りましょう。」
若い夫は恐る恐る聞く。義手をつくるための費用について心配しているようだ。
「両腕の義手をつけたら何ができるようになりますだ。メシを食うことも、尻を拭くこともできないのでは。いわんや野良作業などできるものでしょうか」
郷助は答える。
「最近、義手の指で箸が持てるような仕掛けを考案しただ。両腕の無い人は家族の者が少し手伝ってくだされば、食べ物を自分で食べられる。自分に出来ることを段々増やしていけば良いですだ。春夏秋冬、近在の者で義手、義足、車椅子を使っている者達が1週間、この作業場にやってきて、食事をし、寝泊りしながら話し合いますだ。ここのところがこうなるといいんだが、とか、俺はこんな工夫を考えただとか、皆で話し合い、励まし合っておりますだ」
若い妻は夫の顔を見ながら、聞く。
「その両腕用の義手をつくるための費用を伺っても良いでしょうか」
郷助は才蔵に目配せして、言う。
「村の皆で助け合うことが大切ですだ。そこでウチでは費用は「講」で負担する仕組みをつくりました。ここにいる才蔵さんがその専門家です。才蔵さんから説明させましょう。と言っても「講」ができなけば義手を作らないということではありませんだ。一緒に進めていきます。」
才蔵が義手、義足、車椅子のための「講」について二人に説明する。怪我をした時のための相互扶助活動であること、そのための仕組みであることを才蔵は分かりやすく話す。
話を聞いた後、若い妻が涙ながらに夫に語りかける。
「この作業場の人達も村の人達もあんたを助けようとしているだ。頑張るべ」
郷助の作業場の評判は近在の村にまで広がっていった。村の庄屋の中には郷助の作業場のために秘かに寄付をするものが出てきた。
「郷助さんは世のため、人のために仕事をなさっている。わずかなことしかできませんが、私にもお手伝いさせてください」
ある日、郷助は村の近くで将軍様の鷹狩りがあると聞いた。その時はこんなところまで将軍様は来なさるのか、と思っていたが、どうも外の様子が騒がしい。侍達の姿が見える。
郷助は助手と一緒に作業場を出て、侍達の方に行った。
「ここは身体が不自由になった人達のための道具を作っている作業場です。今日は何か御用でしょうか」
侍が聞く。
「郷助の作業場だな。先ほど休息をとった庄屋でこちらの話を聞いた。上様がどうしても作業場を見たいということで、突然ではあるが来たわけじゃ。粗相の無い様に応対せよ」
上様と言えば、二代将軍秀忠様だ。
秀忠は馬上から降りて、両脇前後を護られながら作業場に入ってきた。制作のための道具について質問をする。郷助は簡潔に答える。助手の一人一人に出身地を聞く。
「大船渡から来ているのか、随分遠くからだな。大船渡の大工は腕がいいと聞いたことがある」
大船渡の源次が答える。
「ここで修行をさせて頂いております」
一通り見た後、二代将軍一行は帰っていった。
助手達が口々に言った。
「いや~、将軍がじきじきに来られるとはたまげました」
郷助は黙って皆の話を聞いていた。
そして一つ、気がかりなことがあった。以前孝吉と一緒に堺に行き、義手、義足,車椅子の関係の書籍を購入して、それを参考にしながら製品の改善に努めていた。侍の一人が作業打ち合わせ台の上に置いてあったポルトガル語の書籍に目を留めていた。
将軍の突然の訪問から3日後、郷助の作業場に侍が5人やってきて、作業場を検分する、と言ったかと思うと、ポルトガル語の書籍をすべて持っていってしまった。
「書籍を検分し、問題が無ければ追って返還する」
1週間後、ポルトガル語の書籍は戻ってきた。金1両と1枚の短冊が添えられてあった。
「民、百姓のためにこれからも励むように」署名は無かった。
郷助の作業場で現在取り組んでいるのは義足をできるだけ軽くするための工夫だった。材料はヒノキを使っている。そのままだとどうしても重くなる。そこで考えたのが、一本づくりをしている木の義足の孔開けだ。沢山の孔を開ければ、その分軽くなるが、あまり開けすぎると弱くなって折れたりする。適度の数というものがある。村の鍛冶屋に孔開けの金具を作ってもらい、それに水車の回転軸をつなげて孔開けできるようにした。能率が上がる。
第64話 波江 養護院始める
波江は慈光和尚の助けを受けながら、寺子屋を続けている。子どもたちが将来世間でしっかり仕事をし、生きていけるようにしたいというのが二人の願いだった。波江が読み書きを教え、また炊事、洗濯、食事など家事について教えている。慈光和尚は仏の教え、偉人の話を子供達に分かりやすく話した。この二人の働きに惹かれるようにして、才蔵が郷助一家に自分の思いを話した。郷助は言った。
「是非おやりください。和算はこれから身分に関係なく、大事な学問になります。私どもは我流で覚えましたが、才吉さんは筋道立てて学んだことでしょうから、子ども達もさぞ喜ぶことでしょう。そして農作業については波江さんがいらっしゃるので余計なことかもしれませんが、ウチの孝吉もお手伝いさせたく思います。いいな、孝吉。」
郷助は隣に座っている孝吉を見て、言った。
「子どもたちに農作業の楽しさを教えるんだ」
「分かりました、おとっつさん」
話を聞きながら、次郎太が言った。
「もし俺で良かったら、ソロバンと商いのコツだったら子どもたちに教えてあげられるんだが、兄やん、どうだろうか」
「おお、そうしてくれ。」
寺子屋で教えることが増えてきたが、教える者達は日中畑で働いている子どもたちにとって負担にならないように、また興味を持って講話を聞き、実習ができるよう工夫した。また子どもたちそれぞれの理解力も違うので、特に個別指導に力を入れた。
才蔵は波江の寺子屋を訪れ、郷助のところでの話を伝えた。そこにやってきた慈光和尚は話を聞き、手を合わせて言った。「ありがたいことじゃ」
波江が出してくれたお茶を飲みながら、3人は暫くこれからの寺子屋の運営について話合った。青物のひき売り、直売所での販売に一層力を入れることにした。
話が一区切りついたところで和尚が思いがけない話をした。
それは赤ん坊の間引きの話であり、捨てられる嬰児の話であった。最近の不作で特に農村で増えているとのことだった。
「間引きを止めることはできないが、捨てられる嬰児が不憫じゃのう」
慈光和尚はため息をつきながら言った。その時、波江が即座に言ったものだ。
「そのような子がいたら私が育てましょう」
「波江さんが、ですか。嬰児の場合、乳が必要です。どうされますのか」
「乳はご近所の母親に分けてもらえばなんとかなります。もしなければヤギの乳でも代わりになるかと思います。京司さんと菊枝さんのところでヤギを飼っていますから、事情をお話すれば、分けてくださることでしょう。」
慈光和尚はいささかあっけに取られて、波江の顔を見た。
「この齢になって、私は赤子を育ててみたいと思うようになったのです。もう自分の子は産めないでしょうから、そのような捨てられた子を育て、母親になりたいのです」
慈光和尚は言った。
「寺の納戸なら空いておりますじゃ。そこで嬰児を育てたらいかがかな。捨て子の嬰児が増えてくると波江さんも忙しくなりますが、大丈夫でしょうかな」
波江は言った。
「千恵ちゃんにも手伝ってもらいます。そして寺子屋の子どもたちにも」
「そうですな、それがいい」
平戸でかつて波江は夫ともに暮らしていた。しかし子宝に恵まれることはなかった。夫の実家からは「お子はまだですか」と絶えずせっつかれていた。夫は波江と床を共にすることがなかった。夜更けに帰宅した時、夫から香の匂いがした。どこかで女子と遊んできたのかと思ったが、それを聞く勇気がなかった。夫は殆ど口を気かなくなっていた。夫と一緒になった時、二人の間に子どもを授かることができれば、夫も変るのではないか、そう思い、夫が出かけた後、ゼウスに何度も何度も祈り、願った。
そしてある晩、波江が着物の中に隠し持っていたクルスに気が付いた時、離縁を申し渡された。その後、母親を平戸において波江は逃げるようにして江戸に出てきたのだった。
そしてそのような話が出た翌日寺の門前に小さな粗末な竹かごに入れて嬰児が捨てられていた。
千恵が見つけ、急いで波江と慈光和尚に伝えた。二人は竹かごから赤子を抱き上げた。赤子は目を醒まし、大声で泣き始めた。産後間もないようであった。衰弱しているようだった。
波江は赤子を抱き、あやした。
「可愛い小さな手をして・・・。口をもぐもぐさせて。お腹が空いているのね」
慈光和尚は波江に聞いた。
「まずは重湯を作って飲ませたらいかがですか」
「そうですね。それからオムツを取り替えてあげましょう。気持悪かったでしょうね」
波江は赤子を抱いて、寺に中に戻り、寝かせてオムツを取り替えた。それから身体を隅々までさすっていた。千恵を京司・菊枝のところに走らせ、ヤギの乳を貰いに行かせた。
千恵から受け取った乳を暖かい重湯で薄めてから、小さな茶碗を使って波江は赤子に飲ませた。
一段落した後、波江は慈光和尚に言った。
「和尚様、赤子は、夜は私の家に連れていきます。赤子は夜泣きをしますから。申し訳ありませんが、日中はお寺の納戸で世話をしたいと思います。」
「拙僧に上手に赤子の世話ができるか、心もとないところもありますが、精一杯やってみますじゃ」
波江は千恵の捨て子の赤子を育てるために、農作業と引き売り、直売所での野菜の販売について相談した。
千恵は言った。
「お母さんはできるだけ家に居た方がいいと千恵は思うの。だから引き売りは私と男の子で行きます。直売所も私と男の子でやります。」
「千恵ちゃん、そんなにやって大丈夫?」
「お母さんと一緒にやってきたから、やり方は分かるわ。大丈夫よ」
「でも大変だ、無理だと思ったらいつでも言ってね。千恵ちゃんが倒れたら大変。約束よ、必ず言ってね」
波江は慈光和尚と今後のことについて話合った。お寺で捨て子の嬰児を引き取って育てているということが知れれば、今後嬰児を寺に捨てにくる若い母親が増えることだろう。そのままでは増える一方でいずれ世話ができなくなることが予想される。そこでどうするか。
慈光和尚は言った。
「赤子を捨てる親もいれば、欲しくても子宝に恵まれない母親もいる。そこでですじゃ、
拙僧と波江さんが身元引受人になって赤子を欲しがっている親達に紹介し、実の親になってもらう・・・というのはどうですかな。当寺の檀家の中にも子どもを欲しがっている若い夫婦がいるはずと拙僧は思いますのじゃ」
波江は和尚の気持が良く分かった。静かに頷きながら
「そうですね。・・・元気に育てて新しい両親に託す、それが赤子にとっては一番いいのかもしれません」
第63話 桑名村護岸普請完了
朝明川の護岸工事は渇水期の冬から春にかけて行なわれることとなった。地元の川越村の農民は普請の指揮をとる者が叡基と知ると、口々に言った。
「叡基さまは坊さんだとよ。江戸の大川の堤の普請も指揮されたとのことじゃ。庄屋から普請の人足はまず俺らの村から集めると最近聞いた。地元の者を優先し、足りないものを他の村から集めるとのことだ。俺達の村のためだ。俺達が率先してやろうじゃないか。」
叡基は普請の準備段階で美濃郡代の奉行増田数馬、庄屋甚衛門にあらかじめこう説明し、許可を取り付けていた。
「堤の普請には高度の技術が求められます。また危険作業も付き物です。つきましては河川の普請に長けた狭野藩の普請方の熟練の者を20名、この現場に入れて、万全の体制を取り、地元の農民の皆さんと一緒に仕事をさせたく存じます。20名は普請小屋に寝泊りし、普請が終りましたら狭野藩に直ちに戻すことに致します。」
代官の増田は幕府ご下命の普請であり、否応があるはずもないが、一言だけ言った。
「許可の件、承知した。ついては20名の名簿を事前に出すように。なお20名の費用は狭野藩持ちということだな。」
叡基は頭を下げて礼を言った。
「御許可頂きありがとうございます。仰せの通り費用は全額狭野藩で負担させて頂きます」
郡奉行の屋敷を出て、庄屋の甚衛門宅に寄り、叡基は甚衛門に頭を下げた。
「これから約半年、何かとお世話になります。朝明川の堤の修復を必ずややり遂げる所存ですので、何卒よろしくお願い申し上げます」
「叡基さまと20人衆、いやいや頼もしいですな。つきましては一つお願いがあるのですが、ここ川越村の農家の次男、三男に河川普請の仕事を教えてやって貰いたいのです。次男、三男にために手に職をつけてあげたいのです。」
「分かりました。狭野藩の普請の仕方を皆さんに覚えて頂きましょう。何、私どもと半年一緒に仕事をすれば、普請が終る頃には一通りのことができるようになります」
甚衛門は「ありがとうございます」と言った後で聞いた。
「それでは普請のために私どもの方では全部で何名くらい集めればよろしいのでしょうか」
「この普請は半年間という短期決戦です。できれば100名程お願いできるでしょうか。作業代は毎月の晦日に出動日数に基づき皆さんにお支払します。川越村でしたら通いで来ることができるでしょうから、特に大掛かりな飯場は建てませんが、飯場で生活したいと
いう人には寝泊りの場所を用意します。通いの人については食事は昼は出しますが、朝夕は自分の家で食べてもらう、ということに致します。ついては食事をつくる女性達、また食材を調達する人達も、甚衛門さんにお願いできるでしょうか。女性達は10名もいれば大丈夫かと思います。」
「分かりました」
甚衛門は叡基の丁寧な言葉に、内心思った。
「この方は普通のお坊さんではない。人に対してとても丁寧で、しかも世情に長けた方だ。こういうお方ならきっと良い仕事をされることだろう」
狭野藩から応援の20名が1週間後に現場に到着した。
直ちに普請のための作業班の構成に取りかかった。狭野藩の者が2名1組で10班を構成し、班毎に川越村の農民を10名づつ割り当てることとした。普請場所は上流から10工区に分割した。
作業の第一段階は資材の手当てであった。朝明川の上流の山で松を伐採し、筏に組んで朝明川で流し、それぞれの工区で引き上げることとした。砂利は渇水期に水が引く下流の護岸で採掘し、荷車でそれぞれの普請場所迄運ぶ。
夏に始めた資材調達の作業は霜が降りる11月末には完了した。
そしていよいよ渇水期の12月に松杭の打ち込みが始まった。松杭は20尺のものを護岸に打ち込み、それに20尺の松杭を繋ぎ、杭と杭の間2間に横板を嵌め、下から上へと積み重ねていった。松杭と横板づくりのための川越村と近在の村の大工が動員された。
作業は順調に進んでいた。
ところが、12月の中旬、季節はずれの大雨が降り続け、朝明川の水位が見る見るうちに上がった。叡基は夜普請現場に急行した。その時、水の流れを見ていた者がいる。班の誰かが先に来て水位の上昇を見ていたようだ。叡基が声をかけようとしたその時仮設足場の横板がはずれ、その者はアッという間もなく、川の中に投げ出された。
叡基はすぐに川に飛び込み、声をかけ続けた。川の勢いは凄まじく、叡基は何度か川の中に沈んだ。その時、自分の右手に何かが触った。グッと掴むと人の足首のようだった。左手を伸ばして着物の帯を掴み、叡基は一旦水面上に顔を出し、その者に叫んだ。
「助けにきたぞ。頑張るんだ」
その者からの声は無かった。叡基はその者の胴を両腕で抱きかかえるようにして流されていった。叡基の意識もいつの間にか、無くなっていった。
普請現場で叡基が川に飛び込む姿を見たものがいた。普請現場は大騒ぎになった。手分けして夜の闇の中、下流へと向けて皆が堤を走っていった。
「叡基様、叡基様」と皆が叫んでいた。
2日経っても3日経っても叡基と班の者は見つからなかった。水位が下がり始めた。下流10里迄探したが2人の姿は無かった。皆が最悪のことを考えていた。川越村の庄屋が言った。もう5里下迄探してみよう、と。
そして2人の姿が見つかった。近づいてみると叡基が班の者を後ろから抱きかかえるようにして、倒れていた。
「叡基様がおられたぞ」
その声に皆が集まってきた。
叡基の顔を見ると赤みがある。かすかだが鼻息をしている。班の者も鼻息をしている。
「二人とも生きている。生きている!」
皆が集まり輪のようになった。叡基様、叡基様と呼び続けていると、叡基はうっすらと目を開いた。
「ここはどこだ」
「叡基様は班の者と一緒に流されてこの川岸に打ち上げられたのですだ」
この後、普請現場では叡基様には仏様の特別の加護がある、この護岸工事は必ず首尾よくなし遂げることが出来るという話が広がった。
報告を受けた氏安は呟いたことだ。「叡基殿の仕事はいつも命がけなのだ。それも自分の命のためではなく人の命を守るため」
朝明川の普請は桜が咲く頃に完了した。
川越村の庄屋、村民は叡基と狭野藩からきた者達を別れる前にささやかな普請完了祝いの席を設けた。
庄屋の甚衛門は村民を代表して感状を読み上げた。
叡基と狭野藩のものは半月ほどそこに留まって、2つのことを地元の農民に伝えた。
一つは「敷き葉工法」もう一つは竹串とヒモを使った作業日程の管理法だった。
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