欅風-江戸詰侍青物栽培帖

第62話 千恵とおしの

 

 

千恵は波江にとって娘であるばかりか歳の離れた妹のようでさえあった。千恵は波江の農作業と寺子屋のために独特の働きをするようになった。農作業では子供達のまとめ役になって手順を子供達に話すのだった。

「今日は土の耕転よ。こんな風に土を掘ってひっくり返す。その前に一昨年の冬準備した 腐葉土を土の上に撒いておきましょう。本当は一尺ほど深く掘って耕転すればいいんだけど子供の私達には無理だから、半尺でもいいわ」

子供達は今日耕転する予定の場所にそれぞれ散らばり、袋に入れた腐葉土を撒いていく。

「腐葉土は土をフカフカにするのよ。それにミミズも腐葉土の中で増えて、畑に入ると畑の土をどんどん良くしてくれるの」

「千恵ちゃんは何でそんなことを知っているの」

「お母さんが教えてくれたの。晩御飯を食べている時にお母さんが教えてくれるのよ。お母さんは母屋の叔父さん、叔母さんから教えて貰っているって」

寺子屋が始まる時は千恵が皆に声をかける。

チリン、チリンと口で言いながら「寺子屋が始まりま~す。皆集まって」

千恵は波江が教材を準備し、筆、墨、紙を準備するのを手伝った。

慈光和尚の朝のお勤めも波江と一緒だった。ある日お勤めの後、千恵は慈光和尚にこんなことを尋ねた。

「私のお母さんは食べ物がなくて、最後は食べる力が無くなって死んでいきました。私を連れて江戸に出てきてから辛いことばかりでした。私はお母さんを大川の水辺から川に流しました。それがこの世での別れでした。でもお母さんは見えませんがいつも私の傍に居てくれるような気がします。この世とあの世はどこかでつながっているように思うのですが、和尚様はどのように思われますか」

慈光和尚は微笑みながら言った。

「拙僧も千恵ちゃんと同じ思いだ。私達は自分達だけが生きているように思うが、そうではない。死んだ人達は、姿は見えないがその思いが私達と共に生きていて、守ってくれていますのじゃ。」

千恵は嬉しそうに言った。

「おばちゃんと私はいつもお母さんと一緒に食事をしているの。おばちゃんと私とお母さんの3人分の食事を準備して食べているんです。」

「それは賑やかでいい」

波江は和尚に顔を向けながら、

「和尚様、ありがとうございます。和尚様にそう言って頂いて、さぞ嬉しかったことと思います」

 

さて狭野藩領内の叡基の寺に文が届いた。郷助が息子孝吉を連れて大阪、堺に行くのでその際、叡基の寺を訪ねたいとのことだった。郷助の旅行の目的は大阪、堺に義手、義足そして車椅子の作り方について説明したポルトガルとオランダの本があると聞いてのことだった。大阪、堺には外国語が分かる通詞もいる。その人達が生きているうちに本を手に入れ、話を聞いておきたい、郷助はそう思った。準備には1年の歳月が必要だった。本を購入するための費用、旅にかかる費用、通詞への謝礼。全部を合わせると郷助にとっては大変な金額になった。次郎太は兄のために特別の講をつくり、仲間から金を集めてくれた。

郷助は将来のことを考えて孝吉を連れていくことにした。タケも次郎太も才蔵も賛成してくれた。

大阪、堺と回って郷助親子が叡基の寺にやってきた。叡基が朝明川の普請から一時戻ってきた時だった。

「叡基様、お久振りでございます。大川の普請では大変お世話になりました。こちらは倅の孝吉でございます」

孝吉が挨拶する。

「叡基様、孝吉でございます。父が大変お世話になっております」

叡基は言った。

「郷助さん、お元気そうで何よりです。この度は義手、義足そして車椅子の件で大阪、堺に来られたとか。求めていた書物は手に入りましたか。」

郷助が嬉しそうに答えた。

「首尾よく手に入りました。つくり方については絵が沢山載っておりますので、ポルトガル語、オランダ語が分からない私にもおおよその見当がつきます。やはり南蛮ではこの方面の研究が進んでいます。学ぶことが山ほどあります」

「そうですか、それは良かった。むさくるしいところですが、とうぞゆっくりしていってください」

そこにおしのが茶を運んできた。叡基が紹介する。

「おしのと言います。元は江戸の近くに住んでいましたが、私が大川の普請をした際、縁あっておしのを知ることとなりました。おしのには兄同然の元吉というものがいましたが、郷助さんもご存知のように地震があった時、普請現場に落ち、命を落としてしまいました。普請が終ってからは私が引き取って、狭野につれてきて私の娘のようにして、一緒に暮らしています。」

おしのは郷助と孝吉に頭を下げて、挨拶した。

「おしのといいます。こちらにご滞在中は私がお世話をさせて頂きますので、何なりとお申しつけください」

その夜はおしのの心のこもった料理の数々が食卓に並んだ。

孝吉が聞く。

「これ全部おしのさんがつくったのかい。すごいなあ」

叡基が言う。

「料理だけじゃないんだ。材料の野菜も全部おしのが畑でつくった。おしのは本当に働きものだ。私も随分と助かっている」

叡基と郷助は酒を酌み交わしながら話している。大川の普請の話だ。

「叡基様。狭野藩が普請したところはこの間の台風の時もビクともしませんでした。ところが隣の工区の堤は他の藩が普請したところですが、一部が波で抉り取られ大変な問題になっています。さすが狭野藩の敷葉工法はすごい、と評判です。」

「いやいや郷助さんが送ってくれた村の衆が本当に良い仕事をしてくれました。そのお陰ですよ」

大人達二人の話を聞いていた孝吉がおしのに聞く。

「どこの生まれなんだい」

「深谷よ」

「どうして江戸に」

「別れ別れになった兄さんが江戸の普請場で働いていると風の便りに聞いたの」

「それで江戸に」

「でも兄さんには会えなかった。どこかで生きていると思うけど。探しているうちに元吉さんに会ったの。元吉さんは厠掃除の仕事をしていた。私も手伝って一緒にやったわ。

そして叡基様の普請現場でも厠掃除の仕事をした。元吉さんは叡基様のお役にもっと立ちたい。それで現場と普請小屋との連絡の仕事を頂いて、始めた矢先に地震で足を滑らしてなくなってしまったの。元吉さんのお墓が、あそこに小さな石が立っているでしょ。あそこに叡基様がつくってくださった」

孝吉は元吉のこと、おしの兄のことを思いながら雲が流れる空を見上げた。

 

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