欅風-江戸詰侍青物栽培帖

第63話 桑名村護岸普請完了

 

 

朝明川の護岸工事は渇水期の冬から春にかけて行なわれることとなった。地元の川越村の農民は普請の指揮をとる者が叡基と知ると、口々に言った。

「叡基さまは坊さんだとよ。江戸の大川の堤の普請も指揮されたとのことじゃ。庄屋から普請の人足はまず俺らの村から集めると最近聞いた。地元の者を優先し、足りないものを他の村から集めるとのことだ。俺達の村のためだ。俺達が率先してやろうじゃないか。」

 

叡基は普請の準備段階で美濃郡代の奉行増田数馬、庄屋甚衛門にあらかじめこう説明し、許可を取り付けていた。

「堤の普請には高度の技術が求められます。また危険作業も付き物です。つきましては河川の普請に長けた狭野藩の普請方の熟練の者を20名、この現場に入れて、万全の体制を取り、地元の農民の皆さんと一緒に仕事をさせたく存じます。20名は普請小屋に寝泊りし、普請が終りましたら狭野藩に直ちに戻すことに致します。」

代官の増田は幕府ご下命の普請であり、否応があるはずもないが、一言だけ言った。

「許可の件、承知した。ついては20名の名簿を事前に出すように。なお20名の費用は狭野藩持ちということだな。」

叡基は頭を下げて礼を言った。

「御許可頂きありがとうございます。仰せの通り費用は全額狭野藩で負担させて頂きます」

郡奉行の屋敷を出て、庄屋の甚衛門宅に寄り、叡基は甚衛門に頭を下げた。

「これから約半年、何かとお世話になります。朝明川の堤の修復を必ずややり遂げる所存ですので、何卒よろしくお願い申し上げます」

「叡基さまと20人衆、いやいや頼もしいですな。つきましては一つお願いがあるのですが、ここ川越村の農家の次男、三男に河川普請の仕事を教えてやって貰いたいのです。次男、三男にために手に職をつけてあげたいのです。」

「分かりました。狭野藩の普請の仕方を皆さんに覚えて頂きましょう。何、私どもと半年一緒に仕事をすれば、普請が終る頃には一通りのことができるようになります」

甚衛門は「ありがとうございます」と言った後で聞いた。

「それでは普請のために私どもの方では全部で何名くらい集めればよろしいのでしょうか」

「この普請は半年間という短期決戦です。できれば100名程お願いできるでしょうか。作業代は毎月の晦日に出動日数に基づき皆さんにお支払します。川越村でしたら通いで来ることができるでしょうから、特に大掛かりな飯場は建てませんが、飯場で生活したいと

いう人には寝泊りの場所を用意します。通いの人については食事は昼は出しますが、朝夕は自分の家で食べてもらう、ということに致します。ついては食事をつくる女性達、また食材を調達する人達も、甚衛門さんにお願いできるでしょうか。女性達は10名もいれば大丈夫かと思います。」

「分かりました」

甚衛門は叡基の丁寧な言葉に、内心思った。

「この方は普通のお坊さんではない。人に対してとても丁寧で、しかも世情に長けた方だ。こういうお方ならきっと良い仕事をされることだろう」

 

狭野藩から応援の20名が1週間後に現場に到着した。

直ちに普請のための作業班の構成に取りかかった。狭野藩の者が2名1組で10班を構成し、班毎に川越村の農民を10名づつ割り当てることとした。普請場所は上流から10工区に分割した。

作業の第一段階は資材の手当てであった。朝明川の上流の山で松を伐採し、筏に組んで朝明川で流し、それぞれの工区で引き上げることとした。砂利は渇水期に水が引く下流の護岸で採掘し、荷車でそれぞれの普請場所迄運ぶ。

夏に始めた資材調達の作業は霜が降りる11月末には完了した。

 

そしていよいよ渇水期の12月に松杭の打ち込みが始まった。松杭は20尺のものを護岸に打ち込み、それに20尺の松杭を繋ぎ、杭と杭の間2間に横板を嵌め、下から上へと積み重ねていった。松杭と横板づくりのための川越村と近在の村の大工が動員された。

 

作業は順調に進んでいた。

ところが、12月の中旬、季節はずれの大雨が降り続け、朝明川の水位が見る見るうちに上がった。叡基は夜普請現場に急行した。その時、水の流れを見ていた者がいる。班の誰かが先に来て水位の上昇を見ていたようだ。叡基が声をかけようとしたその時仮設足場の横板がはずれ、その者はアッという間もなく、川の中に投げ出された。

 

叡基はすぐに川に飛び込み、声をかけ続けた。川の勢いは凄まじく、叡基は何度か川の中に沈んだ。その時、自分の右手に何かが触った。グッと掴むと人の足首のようだった。左手を伸ばして着物の帯を掴み、叡基は一旦水面上に顔を出し、その者に叫んだ。

「助けにきたぞ。頑張るんだ」

その者からの声は無かった。叡基はその者の胴を両腕で抱きかかえるようにして流されていった。叡基の意識もいつの間にか、無くなっていった。

 

普請現場で叡基が川に飛び込む姿を見たものがいた。普請現場は大騒ぎになった。手分けして夜の闇の中、下流へと向けて皆が堤を走っていった。

「叡基様、叡基様」と皆が叫んでいた。

 

2日経っても3日経っても叡基と班の者は見つからなかった。水位が下がり始めた。下流10里迄探したが2人の姿は無かった。皆が最悪のことを考えていた。川越村の庄屋が言った。もう5里下迄探してみよう、と。

 

そして2人の姿が見つかった。近づいてみると叡基が班の者を後ろから抱きかかえるようにして、倒れていた。

「叡基様がおられたぞ」

その声に皆が集まってきた。

叡基の顔を見ると赤みがある。かすかだが鼻息をしている。班の者も鼻息をしている。

「二人とも生きている。生きている!」

皆が集まり輪のようになった。叡基様、叡基様と呼び続けていると、叡基はうっすらと目を開いた。

「ここはどこだ」

「叡基様は班の者と一緒に流されてこの川岸に打ち上げられたのですだ」

 

この後、普請現場では叡基様には仏様の特別の加護がある、この護岸工事は必ず首尾よくなし遂げることが出来るという話が広がった。

 

報告を受けた氏安は呟いたことだ。「叡基殿の仕事はいつも命がけなのだ。それも自分の命のためではなく人の命を守るため」

 

朝明川の普請は桜が咲く頃に完了した。

川越村の庄屋、村民は叡基と狭野藩からきた者達を別れる前にささやかな普請完了祝いの席を設けた。

庄屋の甚衛門は村民を代表して感状を読み上げた。

叡基と狭野藩のものは半月ほどそこに留まって、2つのことを地元の農民に伝えた。

一つは「敷き葉工法」もう一つは竹串とヒモを使った作業日程の管理法だった。

 

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